タカナシズムな呟き

つぶやきの寄せ集め

【小説】観察者の手記

 何かを書こうと思い立ったのには特に理由はない。

 なぜ私が人間の言葉を使って文字を書いてるのか、見当がつかない。きっと私は話し相手が欲しかったらしい。誰かに自らの思いを伝えたかったのかもしれない。いずれにせよ、一種の暇つぶしでこの文章は書かれていることには違いない。

 諸君は人間なのだからこの言葉を別の言語に置き換えて読むことも可能なのだろう。出来れば多くの人にこの文章は読んでもらいたいから、色んな言語に訳されることを願う(私の手で翻訳することも可能だが、いかんせん面倒くさいのだ)。

 と、自己紹介がまだだった。前述したように私は人間ではない。お前たちよりたくさんの時間を生きてきたし、多くの知識を持っている。要は地球上のことは誰よりも知っていると自負している。

 人間の世界では自分以上の存在を認めたら、それは「神」と称し、崇めるらしい。だから私は「神」なのだろうか。いや、違うな。なぜなら私は誰にも認知されていないからだ。誰かに知ってもらわなければ私は「神」にはなれない。

 そういやこの国の書物にも似たようなことが書いてあった。「御伽話」には「化け物」や「怪物」に遭遇する人間どもの話が書かれているのだが、これも認知されなければ彼らが恐ろしい存在だとみなされない。

 結論として私は「神候補」の存在にしておこう。

 ここで誤解を持つかもしれないから断っておくが、私は「神」として崇めてもらう、認知してもらう目的としてこの文章を書いている訳ではない。もしかしたら少し前の私は本当にそう思ったかもしれない。けれど残念ながら(これは自分にとってだが)、今はそんな思いで話が出来るとは思っていない。

 正直、私は人間を馬鹿にしていた。

 なんて愚かな種族だろうとも思っていた。

 それも仕方ないことはわかっている。人間の寿命は短くせいぜい100年くらいしか生きられない。そして集団を好む動物なのだ(集団がなぜいけないのかというと、どれが自分にとって正しい考えなのかが分からなくなってしまうからである。その結果、自分の考えを持てず周りに頼りきってしまう)。

 集団に属した人間はそれらのことを一番に考え、属さないもの(敵)の気持ちを汲み取らなくなる。そうやって「国」という大きな集団を作り始める。「国」と「国」は互いに睨み合い、戦い合う。実に滑稽で間抜けなものだ。

 これだけならまだましだ、人間には「知能」が備わっている。これを使えば様々な便利なものが生み出され、生活を豊かにする。文にしたらとても良いことのように思える。

 しかし、これがそうはいかない。良いことに使う道具が生まれる一方で悪いことに使う道具が生まれるというところだ。言葉に語弊が生まれるが、ここで言う良いことは「生活を豊かにすること」で、悪いことは「生活を豊かにできなくすること」という意味だ。

 生活が豊かになることは私は何も言わない。勝手に豊かになって、幸せになると良い。しかし問題は後者だ。これは私も黙認できない。特に「ダイナマイト」という道具は私が見てきた中で史上最悪のしれものだ。しかしこの「ダイナマイト」も最初は生活を豊かにする、良いことに使われることを望んでいたという。それがどうして彼らの命を奪う悪いことに使われるようになったのか。

 この「悪の知能」と、「集団」という習性が混ざり合い、人間は愚かで下等な生物だとみなしていた。少なくとも少し前までは。

 だが、今の私はそうは思わない。

 

 

 

 ここでさっきはあまり触れなかった人間の性質について触れてみよう。確かに人間には愚かで馬鹿な一面が備わっている。しかしそうじゃない一面もそれなりにあるということだ。

 その一つに「繋ぐ知能」というものがある。

 書いている私もいまいちピンとこない言葉なので簡単な例を挙げる。

 私がまだ暇を持て余して人間界に紛れ遊んでいた頃(今とあまり変わらないかもしれないが)、私は一つ人間に感心することを発見した。それが「数学」という考え方である。

 その頃の人間はやたらと地球のことを知りたがっていた。その中には太陽は地球を中心に回ってるんだ、など間違った結論が打ち立てられており、腹がよじれる思いでそれを眺めていたものだ。その中で一際「数学」という考えは私の心を動かされたものだった。

 この世界はどうやって作られたのか、それを数字という記号で置き換えていこうとするのである。私は興味が湧き、「数学」を学び始めた。

 人間界で紛れ込むのはそう難しいことではなかった。私の見た目は人間にそっくりだったし(髪はぼさぼさなのだ、色んな知識が入ってるからな)、子供っぽい外見なので気兼ねなく話しかけることができた。

 その中で仲良くなった一人に数学が大好きな女がいた。当時は性差別が激しく、数学を学ぶ女は社会的に認められていなかった。今思うと危険な道に敢えて踏み込んでいたかなり珍しい人間だったのかもしれない。

 性別という概念がよく分からない上に独りぼっちな私にとって「差別」とは何か分からなかった。なぜこいつは他の人間にいじめられるのだろう。そんなことしか思っていなかった。

 当時人間を下にしか見ていなかった私は「数学楽しい?」という彼女の純粋な質問に「楽しくなかったら学ぼうとは思ってない」という捻くれた答えを返したと思う。見た目と相反して捻くれたことばかり言う私を彼女は訝しげに見つめていたのをよく覚えてる。

「私、昨日お家から締め出されちゃった」

「何か悪いことでもしたのか」

「ううん、数学の本を読んでたら、お父さんに「そんな本を読むんじゃない」って怒られてそれで」

「数学は面白い。色んなものを数字で表そうとしている所が画期的だと思う。それなのになぜ学んではいけないのだろうか」

「私が女だからよ」

「?よく分からない」

 それから色々彼女は私に言ったけどそれらのほとんどは私にとっては理解できないことだらけだった。

 何年か経って、彼女は「面白い問題を見せたげる」と言ってきた。それはこんな問題だった。

「x^n + y^n = z^n nが3以上の自然数の時、これらを満たすx、y、zの組み合わせは存在しないことを証明せよ」

 当時、人間が考える問題なんてたかが知れてると思っていた私はこれを見てどう思っただろう。面白いよりも先に嫌な気分を味わった。どう考えても答えが思いつかなかったのだ。後にこれは「フェルマーの最終定理」と呼ばれ、300年もの間、多くの数学者を悩ませた。

 最初は「こんなの証明できない、でっち上げだ」と思った。私が分からない問題をフェルマーが簡単に解けるわけがない。どうせ証明しないままこの問題を作ったに違いない。そう思っていた。

 彼女は「いつかこれを証明するのが夢だ」と言っていた。私はそれを聞いてころころ笑った。

 結論を言うと彼女はこの証明問題を解くことはできなかった。けれどそこまで彼女を本気にさせたこの問題を恐れるようになったのは言うまでもない。

 それから数百年後、私は屈辱的な思いをすることになる。アンドリュー・ワイルズという人間がこの「フェルマーの最終定理」を証明したのだ。

 数々の手がかりを残していった先人たちの知識を総動員し、証明されたこの問題。ここに私は「人間はひょっとしたらすごい生物かもしれない」と感じさせられることになった。

 これが所謂「繋ぐ知能」と呼ばれるものだ。寿命は短いながらも次の世代に「知識」を渡していく。その度に彼らは進歩していく。もちろんこれは技術的側面だけでなく、言葉や気持ち、思いをも受け継ぐことができる。

 なるほど、私は納得した。この種族を絶やしてはならない。彼らはこれからもどんどん成長していく。もしかしたら私にも追いつくかも知れない。その時は楽しみだ。

 おっと。調子に乗ってしまわないように私は最初に言ったことをここでもう一度言っておこう。人間はまだまだ未熟で愚か者だ。しかし、中には良い所もある、それを磨いていくことで人間という生き物が発達していくことができるのだろうと思う。

 

 暇つぶしに書いてるからもう一つ。

 諸君は「幸せ」とは何か考えたことがあるだろうか。

 私にはこの感情がひどく少ないように感じる。

 人間の姿形をしているのに、人間が持つへそや生殖器などがない。こんな私と同じ種族は今まで一人として見たことはなく(ひょっとするといるかもしれないと散々探したこともあったが、ついに見つからなかった)、いつも孤独に蝕まれている。話し相手はごく一部の人間しかいないが全員私よりも先に死んでいなくなってしまう。その度に私は声を上げずに泣く。

 「愛」は「幸福」と通ずるところがある。そして「愛」は「家族」と通ずるところがある。

 こうしてみると、私は家族もなく愛されたこともない。

 全てを知り尽くした私はこれといってやりがいのあるものもなく、ドキドキすること、ワクワクすることがあまりない。

 そういう点で私は人間を少し羨ましく思ったりする。

 ここでまたひとつ例を挙げよう。私がまだ人間を知り始めて間もない頃、「クリミア戦争」という大きな戦争が勃発した。

 その頃、私には仲の良かった人間がいた。しかし、その人間は、兵士を志願すると言い出したのだ。

「馬鹿野郎、戦って何になる」

 私は再び孤独になるのがたまらなく嫌だった。こいつは私を置いてけぼりにしようとしているのではないか、とさえ思った。

 彼はこう言った。

「僕は国を守りたいんだ。多くの人の幸せを守ってあげたいんだ」

 彼の言っていることに私は理解できるはずもなく。

「国を守って善人気取りか。結局お前は自分の幸福を犠牲にするのは躊躇わないんだな。自分のことを大事にしない奴が他の人を幸せにできるわけがない」

 結局彼は私の反対を押しのけて戦場へ向かった。

 そして二度と戻ってくることはなかった。

 

 もしかしたらこの辺から人間が馬鹿な生き物だと薄々感じていたのかも知れない。

 彼が兵士学校へ通う間、私は「多くの人の幸せを守ってあげたいんだ」という言葉を心の中で反芻していた。「幸せ」って何だ?富か?名声か?そんなことを何日も考えていたような気がする。

 そして「幸せ」の正体が「愛」だと知った時、同時に私にとっての「幸せ」はまだ来ていないことに気づいたのだった。

 

 

 私はこれまで人間は「馬鹿で愚かな生物」としか思っていなかった。

 しかし、それは「嫌悪」とは少し違う。私は人間に対して「嫌悪」の感情を抱いたことは一度たりともなかった(あれば私は人間界に遊びに行かない)。理由は簡単で、彼らが私を敵視しないからだ。今まで出会って来た人たちは興味本位か知らないが少なくとも「嫌な顔」をしないものたちだらけだった。

 中にはとても面白い人間もいることがあった。

 こんな会話をしたと思う。

「君はどこから来たの?」

「私か?そうだな、遠い所からきた」

「お父さんやお母さんは?」

「いない、生まれた時から私は私だけだ」

「何歳?」

「13」

「好きな食べ物は?」

「トマトが好きだ。柑橘類も然り」

「私も好きだよ、トマト。美味しいよね」

「うむ。トマトは栄養満点だからな」

「そうだ、うちに美味しいトマトがあるんだ。一緒に食べよう!」

「...」

 話が脱線してしまっている。

 身元を調べられてるうちになぜか「トマト」の話になってしまい、こうして私はこいつの家でトマトを召し上がることになる。

 なんども言うが私は多くの人間に出会ってきた。

 人間には「法律」と呼ばれる共通の決まりがあるらしい。

 その決まりを破った者にはそれ相応の罰が与えられる。

 私と親しげに話していたその少女は、ころころ話題を変えるのが好きだった(振り回される私もそれなりに楽しかったが)。それと同時に決まりを破るのも大好きだったのだ。

 彼女は私のことを「ロンくん」と呼んでいた。訳を尋ねると「いつも一人でいるから(Lonely→Lon)」らしい。私が傷つきやすい人間だったらその言葉でショックを受けるというのに、こいつは平然と言ってのけた。

 そういやこの子は私が名を聞いた初めての人間だった。もっとも初めに聞いたのは愛称めいたもので本名ではなかったが。

「あなたはロンくん。可愛い名前でしょ?」

「でも一人ぼっちって意味なんだろ?」

「私の名前はね、チェンジっていうの」

「チェンジ?」

「私の話し方、みんなから嫌われてるの。いつも話題を変えちゃって気に入らないんだって。だからチェンジ」

「そう呼んでいいのか?」

「仕方ないよ事実だし。それより何して遊ぶ?」

 チェンジと私は何年も遊んだ。

 そんな私に会いにくるものがいた。彼女の先生である。

「誰だ?」

「ラテューナ(チェンジの本名)の担任、ベルです。あなたからも言ってやってください、もう規則破りは辞めなさいと」

「そんなにひどいのか」

「彼女は規則破り、いえ掟破りの常習犯です。今朝だって学校に持ってきてはいけないものを持ってきました。これは許されないことです」

「はあ、して彼女は何を持ってきたのか」

「いちごです」

 腰が抜けそうになった。

「なんでいちごを学校で食べてはいけないのか」

「そういう規則だからです」

「それを食べることで何か悪いことが起こるのか」

「それでは聞いてください、りんごを食べたことで今の私たちはこんなに苦労しています」

 笑いが止まらなかった。世の中にはこんなことを平気で言うやつらがいるのかと思うとおかしくてたまらない。

 その日の午後、チェンジは不機嫌な顔で私のところにやってきた。状況を把握していた私は笑いを堪えるのに必至だ。

「うう。いちご没収されちゃったよ」

「なぜ学校にいちごを持ってきたのだ?」

「だって美味しいんだもの」

「なら仕方ないな」

 その光景に彼女は自ら可笑しくなったのか、一緒に大声で笑った。

 これで私が人間を馬鹿にしながらも嫌いになれない理由がわかったろう。

 

 

 さて、ここまで書いてきたが私は少々疲れてきた。この程度の文字数だと小冊子にもならない。「作家」と呼ばれる、分厚い本を作れるぐらいの文章を書く人間どもはよほど暇なのだろうか。

 人間どもは「お前でも疲れることがあるのか?」と考えることだろう。生憎、私だって疲れることはある。寿命だって勿論ある(と思っている)。人間と比較したら長いのかもしれないが、私は今のところ700年ほど生きている。

 私が生まれた時、「なんでも知りたい」という欲で溢れていた。

「私はどうして生まれたんだろう」「誰が私を産んだのだろう」「私の体はどうなってるのだろう」「どうして物が見え、言葉が喋れるのだろう」

 小さい頃の記憶はあまり覚えていない。ただ何かを知りたい思いで満ち溢れていたことは覚えている。

 当然生まれた時、身の回りには誰もいなかった。私は絶えず孤独だった。けれど私はそれを「寂しい」とは感じなかった。それが当たり前だったからだ。

 私に「寂しい」という感情を教えたのはやはりお前たち人間で、私には無い「幸せな」「楽しい」暮らしをする人間のことを心底羨ましがった。これが「嫉妬」だと気づいたのはもう少し後のことで、そんな嫉妬心から私は人間が私より劣っている部分を探す旅に出かけたのだった。

 まあ、その旅で人間の欠点を吐いて捨てるほど見てきたわけだが。それが「ざまあ見ろ」と思うことがあれば、「何をやってるんだ」と呆れる部分もあり、多種多様な感情を抱く。

 

 さて、今まで長い道のりだった。

 人間には過去を記録する習慣があることは知っていて、700年前と聞いても容易に当時の時代を想像することが可能だろう。唯、その話をすると長くなりそうだからここではやめておくが、とても大変な時代だった。よくもまあ人間は滅びずにやっていけたな、と常々思う。

 それから今までにも数多くの困難が待ち受けていたことは歴史を学んでいるお前たちは十分理解しているだろう。そう、お前たちは「運がいい」。今も人間が平凡と暮らしていけるのはもはや「奇跡」に近い。

 と言ってもそれは私にとっても嬉しいことだ。なんせ700年経っても私は人間の世界に飽きていないのだから。それにこれ以上私以外の「話し相手」がいなくなってしまえば、今度こそ私は孤独と悲しみに苦しめられることになるだろう。

 ノストラダムス、マヤとやらが唱えた「地球滅亡論」なんてものは来て欲しくない。人間がとことん馬鹿でも滅んで欲しくない。その願いがここまで続いてきたことに喜びを感じる。

 そして時は21世紀。私も7世紀生きているという実感がなんとなく、感じられている。

 

 言いたいことはおおよそ言えた気がする。

 ここまで私の戯言に付き合ってくれた人間諸君、どうもありがとう。私はこれからもしぶとく生き続け、人間を観察していくつもりだ。お前たちも「私にはない」幸せを大いに楽しむがよい。

 

 さて、今度はどこへ遊びにいこうか。