タカナシズムな呟き

つぶやきの寄せ集め

感想:「君たちはどう生きるか」【ネタバレ有】

 内容のほとんどを事前に知らされないまま視聴した数少ない映画の一つ「君たちはどう生きるか」。

 朝一番の上映で鑑賞してきた。周りのレビューを一切見ずに、私が思ったことを素直に書く。

 


 宮崎駿が作る映画の中で特に難解で複雑な映画だったと思う。タイトルからして子供向けの映画でないことは分かっていたけれど、大人が観ても大きなハテナが浮かぶこと間違いない。

 


 私にとってこの内容の複雑さというのは同時に面白くないとも置き換えられるものであり、正直なところ残念な気持ちが強い。7年という歳月をかけて宮崎駿が放つ弾だったとしたら「この程度のものなのか?」というのが厳しいながらの所感となる。少なくとも前作の風立ちぬは間違いなく超えていない。

 124分という限られた時間で描き切るには些か難しいテーマだったのかもしれない、登場人物たちの飲み込みの速さに観ている私たちがついていけず、後半はやや急ぎ足になっていた。

 


 ストーリーについて。

 


 私が持っていた前情報は本作が冒険活劇ファンタジーであることと主題歌が米津玄師であることである。

 あいにく登場人物のキャラクターの名前は主人公の「真人」と付き人のおばあちゃん「キリコ」、再婚相手の「夏子」しか思い出せない。

 


 主人公「真人」が空襲警報と共に起こされ、母親のいる病院が火事であると知るや駆け出すシーンから始まる。火の揺らめく描写が生き物のように動いてそれに飛び込む真人の疾走感、迫力が伝わってくる。主人公たちにとっては辛いこの場面がこの映画の中で一番良いシーンだったのではないかと思う。

 戦争が落ち着き、主人公の父は再婚して新しい生活を始めようとする。新しい母の夏子に真人は馴染めずずっと他人行儀。すでに夏子のお腹の中には赤ちゃんがいる。

 常に真人は心を閉ざしっぱなし。新しく入った学校では裕福な姿が気に食わないクラスメイトと喧嘩し居心地が悪い。わざと頭に傷をつけて学校を休もうとする。

 


 ここまで観て違和感があった。どうも中々冒険活劇ファンタジーが始まらない。この導入の長さは果たしてこの映画に必要だったのかは今思えば疑問である。

 


 真人の父親は息子想いのいい父親なのだろうが、裕福な暮らしに自信を持ちすぎて他人を下に見る傾向にある。そして真人とは裏腹に過去を振り返らない前向きな人物に描かれている。この性格の違いから、この父親と不仲になるのではと思っていたがどうもそんなことにもならず、よくわからない人だ。

 


 付き人のおばあちゃんたち。ずんぐりとした頭はとなりのトトロのカンタのおばあちゃんや千と千尋の神隠しの湯婆婆を彷彿とさせる、安心感のあるキャラクターだ。

真人が行方不明になった時は懸命に捜索し、頭に傷をつけて帰ってきた時も献身的に看病に努めてくれていた。

 


 父親の再婚相手、夏子に関してはこうして書いてる今でも謎が多く残っている。ある時は真人を想い、ある時は真人を拒む。子を孕んでいるため情緒が不安定なのか劇中では様々な表情を見せるキャラクターだ。

 


 そして物語を大きく動かす「アオサギ」。名前はこれも分からない。オヤジのような野太い声で真人の心を揺さぶるキーキャラクターである。

 


 アオサギが目障りな真人は自前で弓を作り、仕留めようとする。弓を作って練習していた所を付き人キリコに見られ「タバコと引き換えにそれより上質な弓をやろう」と持ちかけられる(タバコはもう持ってないと断る)。

 


 物語が大きく動くのはその後。母が生前に大きくなった真人へと贈った「君たちはどう生きるか」を読み耽っていた真人は付き人たちの知らせで夏子の失踪を知る。つわりのため自室で休んでいたはずの夏子だったが、本を読む前に外に出ている所を真人に目撃されていた。

 夏子が歩いて行った方向へ歩みを進める真人と「こんなところに夏子が行くはずがない」と言うキリコの前にはあのアオサギが立ち塞がる。夏子の居場所を知っているというそのアオサギを追いかける二人は「異世界」へと飛ばされてしまう。

 


 この時真人は用意していた弓でアオサギを狙った。たった一本の弓矢は当然当たらず、万事休すかと思ったその時、その矢は進路を変えアオサギにあたるまで永遠に追尾し続ける。とうとうくちばしに命中し刺さった場所にぽっかり穴が空いた。すると忽ちアオサギは姿を変え、小さなおじさんへと変身する。ここから雰囲気は一変して今までの物語が宙に浮き始める。

 


 突然コミカルな映画へと変身したことで驚く私たちをよそに物語はどんどん複雑化していく。異世界へと飛ばされた真人はだだっ広い野原へと投げ出される。その場所はハウルの動く城ハウルカルシファーと取引をした湖の見えるあの場所を彷彿させる。

 


 ようやくファンタジー世界へと足を踏み入れたんだなと思った。ここまでくるのに体感かなり掛かったと思う(全体の三分の一くらい)。

 しかし私が思っていた冒険活劇ファンタジーとはかなりかけ離れたものだった。

 


 開けたら死ぬと書かれた看板の門をうっかり開けてしまったり、ペリカンの大群に襲われそうになっていたところを突然現れた謎の女に助けられたり、ヨットを漕いでとある場所を目指す二人の横からはこれまた千と千尋の神隠しに登場した神様のような半透明な人相が姿を出す。謎の魚を捌き、彼らに与え、自身らもスープのようなものを食い床に伏す。白くて丸い生物はこだまを連想し、真人の面倒を見てくれる女は千と千尋の神隠しに登場するリンを連想させる。

 

 この一連の流れを真人はすんなりと受け入れる。

 私にとってはファンタジー世界の仕組みはおろか、この物語の全てから置いてけぼりをくらうことになる。

 


 真人の「飲み込みの速さ」について行けない私は後に展開される出来事をポカンとしながら眺めていた。

 

 このファンタジー世界のシステムを親切に教えてくれる女(それでも理解できない)、炎の魔法を使う謎の少女らに導かれ、真人は母やキリコ、夏子を見つけだし元の世界へと帰るところで物語は終わり。

 

 エンドロールはブルー背景にただ製作陣の名前が流れていくだけ、非常にシンプル。

 多くの謎を残したままアオサギはするりと飛んでいったのだった。

 

 

 

 総括。

 


 「君たちはどう生きるか」という小説は真人をどう動かせたのか。おそらくこの小説を読むのと読まないので理解が大きく変わってくるのだろう、予習無しで観たせいでそれを読んで真人がなぜ泣いていたのかが分からない。

 中盤以降が愉快なファンタジーだったため、それまでの戦争描写、クラスメイトと揉めるシーンなどの辛い場面がまるで嘘だったのかと思わせるほど落差が激しい。そのジェットコースターのような情緒の動かされ方に終始戸惑いっぱなしだった。新海誠のすずめの戸締まりはこの点で大きく勝っているように思える。

 かなり端折られたファンタジー世界の仕組み。それに素早く順応する真人と置いてけぼりにされる私。

 キャラクターの使い方も雑だ。真人の父親、ファンタジー世界の王様、真人の祖先おじいさん、アオサギ、夏子、炎の魔法を使う少女。多くは語らず自身の想像で補うしかない彼らのキャラクター性をストーリーから理解するのはあまりにも難しすぎる。

 またキャラクターや場面が今までのジブリ作品のオマージュのようになっていて総集編を観ているような描写があった。特にとなりのトトロ千と千尋の神隠しハウルの動く城から引っ張っているのは私にでも分かった。分かったからなんだという話だが。

 

 繰り返しになるが、この映画は本当に宮崎駿がどうしても描きたかったものなのだろうか?私にはこれがこれまでのジブリ作品のあれこれを寄せ集め、それを大雑把に切って入れただけの不思議な料理にしか思えない。今までも多くは語らない、あとはお客さんの想像に任せますというスタンスの話が多かったが、今回の「君たちはどう生きるか」は想像させるだけの材料があまりにも少なすぎたのだ。

 結論、私はこの映画に満足できていない。これが宮崎駿監督最後の作品だとは認められない。

 

7年ぶりのGalileo Galileiのライブに行ってきた話


 6月9日、Galileo Galileiの復活ライブなるBee and the whalesツアーに参戦してきた。

 


 ボーカル尾崎雄貴の生声を聴くのは、Bird Bear Hare and Fishという別バンドのファーストアルバム「Moon Boots」がリリースされた時の記念ライブ以来。当時から既にライブ慣れしてる印象があった(MCは相変わらずだったけれど)。このライブがあったのがもう5年も前だという。時の流れは早い、あっという間だ。

 


 結論から言うと5年ぶり(Galileo Galileiとしては7年ぶり)のライブはとても楽しかった。懐かしのあの曲や復活に際して書き下ろしてきた新曲が混ぜ混ぜで新参古参ともに楽しめるセトリになっていたし、何より演奏している4人がとても楽しそうにしていたのを観れただけでファンとしては感慨深いものがあった。

 


 個人的にどの曲が良かったか挙げるとすれば「くそったれども」という曲。CD音源ではないライブ音源で聴くそれがとても情緒揺さぶられるサウンドになっていると感じた。Youtubeで公式があげているものがあるけれど( https://youtu.be/FO7u6n7H76c ) 2012年のものだから、今の成長したGalileo Galileiが演奏する「くそったれども」はより完成されたものになっていたと思う。まあ生で聴いているからというのももちろんあるけど。

 


 会場のみんながノリノリだったのは多分「恋の寿命( https://youtu.be/553pbIU5HRw )」「バナナフィッシュの浜辺と黒い虹( https://youtu.be/iubApGbf04I )」あたりかな。やっぱみんな好きだよねこの2曲。特にバナナフィッシュは私がGalileo Galileiを好きになるきっかけになった曲だから、こうやってまた生で聴けたのは嬉しかった。

 


 MCについても触れておこう。まあ尾崎兄弟はいつも通り、というか5年前から全く変わってないMCぶりだった。良い意味でふわふわしている。それと対照に岡崎くんと岩井さんはとってもしっかりしたコメントを残していたのが印象的に残った。Galileo Galileiに対する思いがとても伝わってきて、これからも4人で頑張っていく強い意志を感じた。もちろんこちらもファンとしてこれからもどんどん聴き続ける所存である。

 

 

 

 ここからは私自身のライブ当日の思い出話。

 

 

 

 今回、大阪のチケットを取ったのだけど、あいにく当方が静岡に引っ越ししてしまったため名古屋公演を取れば良かったと少し後悔している。だがしかし長旅で帰ってきた大阪は楽しかった。20年近くこの場所で育ってきたので、アットホームな感じがした。天気は少し曇っていたけれど雨が降ることもなかったのでそれも良かった。

 


 なんば駅からZepp Nambaまで割と歩くので余裕持って行くと15時過ぎで既にライブハウスを囲うように長蛇の列。事前物販は既に始まっているらしかった。並ぶことにはそこまで抵抗はない、30分前後で物販ブースにたどり着いた。買ったのはラバーキーホルダーとフェイスタオル。ラバーキーホルダーは良いぞ、アクキーと違って鍵につけてても割れないからな。

 


 18時開場で2時間近くのラグがあったのでなんばCITYなんばパークスのお店で時間を潰したのち再入場。覚悟はしていたけれど至る所に人、人、人。決して広くはないライブハウス(失礼かもなので先に謝っておく)の中にぎゅうぎゅう詰めになる感じがライブに来たのだという実感を得られる。ここで30分以上ぼっ立ち待機で脚がえらいことになると確信、次からはスタンディングより指定席を選ぼうと思った。

 


 その分ライブが始まるととてつもなく開放的な気分になった。きっと空調を整えてくれたスタッフさんのおかげだ。ありがとうZepp Nambaさん。どうせならもうちょい早くから空調いじってほしかったです。ライブ途中、後ろの方で人が倒れてるっぽいアクシデントもあったみたいで、やっぱしんどいよな立ちっぱはとなった。

 


 割と予定通り、21時ぐらいにライブは終わった。

 そのまま次の日は東京で用事があったのでとんぼ返りするという、ライブ前の時間の持て余しはなんだったのかと言わんばかりに最後は慌ただしい帰郷だった。今度はもうちょい前後の予定も空けて大阪でゆっくりできたらいいと思った。

アイドルに思うこと

 とんと見なくなったね、アイドル。

 アイドルってあれだよ?歌って踊ってキラキラしてる、あれ。

 松田聖子とか山口百恵とか。一人で歌ってる姿に心打たれた時代が流れて、ジャニーズやモーニング娘。AKB48とかのグループ売りになっていって。今はバーチャルライバーとか二次元キャラクターとして、ついにイラストで事足りる時代になってしまったなって。どんどん変わっていくんだね、「アイドル」って。

 

 地下アイドルっていう界隈があるのも知ってるよ。そこだけは変わらないね。テレビで特定の人がアイドルとして売りだされてた時代からリアルアイドルの勢いが無くなってきている今でも、彼らの界隈は変わらずあると思う。でも私の思っている「大衆向けアイドル」のカテゴリとはちょっと違う気がする。今回は考えるのやめるね。

 

 勘違いしないでほしいのが「アイドル」の勢いが無くなっていると言ってるわけじゃないってこと。ただ追っていく対象が変わってきてるっていう話。

 数十年前までアニメやゲームやってる層ってかなり日陰ものだったと思うんだよ。でも今じゃ二次元キャラクターが大衆向けアイドルやってるんだもんね。それくらい世間の見方も考え方も変わったってことかと感慨深い...。

 選ばれた理由も挙げればいくらでも出てくる。リアル人より二次元キャラとしてアイドルやるほうが長く活動できるから。顔に自信がなくても堂々と活動できるから。個人情報が比較的漏れにくいから。いっぱいあるけど、ファン目線で言えば自分の理想を壊されにくいからっていうのが一番大きいんじゃないかと思う。

 バンダイナムコがアニメキャラクターでアイドル売りを始めたアイドルマスターは一つの転換期だったのかもと思ったり。それに続いてラブライブとかバンドリとかが出てきて、二次元アイドルというポジションを獲得できたんだなって。

 しかも一部の過激な人は中の人の裏事情とかも知りたくなったりして。スキャンダル配信者とかが出てきて...もうマスコミと一緒ですやんか。こうして考えると時代は繰り返されてるなと。

 

 リアルアイドルと二次元アイドルは別もの!って言う人の気持ちも分かる。でも最近リアルアイドルの勢いあからさまに無くなってきてるじゃん。流石にもう認めざるをえないでしょ、元気を貰う対象が変わったんだよ。

 本当ならいたはずのファンが別のところに流れていってる。Vtuberの配信とか最近だと同接あったとしても数万人、数十万人集めてる人がいたりするし(リアルタイムでだよ?)。たまに覗いたりするとめちゃくちゃ沢山の人が観ててコメントとかしてるんだよ。人気コンテンツには本当に人が集中してるんだなぁ(小泉構文)って思う。

 SNSの人口もめちゃくちゃ増えたもんね。私がTwitter始めた時なんて数千でもお気に入り(今のいいね機能)がつけばめちゃくちゃバズってる扱いだったのに。今は数十万のいいねとかゴロゴロあるからやっぱ人多くなってるわ。これだけ人が集まってるんだからインターネットを拠点に活動するのが今のトレンドなんだろうな。テレビを拠点にする時代は終わり閉廷以上ここで解散。もう縋り付く必要もないよね、昔からテレビの偉い人と縁があるとかでもない限り。

 

(備考)

 アニメのイベントのはずがリアル人が登場して(声優さんの人だったりダンサーだったり)可愛い衣装で歌って踊ったりするパターンをめちゃめちゃ見るんだけど、あれはみんな的にOKなんですか?いわゆるアニメの声優さんのアイドル売りについてなんだけど「自分はアニメのキャラクターたちが好きなのであってリアル声優やダンサーが好きなわけではない!」とかいう人がいないのはかなり不思議に感じてます。

 

 

「ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー」を観た。【ネタバレ有り】

※この感想はネタバレを多く含んでいるため、閲覧する際はご注意ください。

 


 マリオの映画こと「ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー」。運良く初日の夕方の回で予約できたので観に行ってきたよ、という話。

 


<劇場の雰囲気・大まかな感想>

 


 スーパーマリオシアターというよく分からないシアターに通されたけど、いきなりマリオとルイージの着ぐるみが出迎えてくれたり、シアター内はキノピオの座席シートで覆われていたりとマリオの世界(?)に浸れる空間が作られてた。

 


 Nintendoのロゴを映画館で観れるのも新鮮だったな...。

 


 それで映画が始まって観るわけなんですが(スーパーマリオシアターだと声優の宮野真守さんと畠中裕さんのちょっとした動画が流れます)。観終わってから聞こえて来たのは「めっちゃ面白かったね」という隣に座ってた人の声。

 


 ほんとあっという間だった。短い映画なんだけど、それでも満足感はすごかった。

 


 そう満足感!(大事なことなので二度言う) この映画は映像を楽しむに特化してる映画だと思った。どこを切り取っても面白いシーンが連続で起こって、CGで作られたマリオたちの豊かな表情や俊敏な動き、広大な景色、とにかく観るところが多すぎる、密度がすごすぎる。

 


 ただ事前に聞いていた、ストーリー部分で粗があるっていうのもわかる。映画だし、限られた時間で収めるにはちょっと時間が足りないっていうか端折ってるというか。それでも映像の楽しさがその不足を充分すぎるくらい補ってくれてるから大したデメリットになっていない。軽傷、無傷に近い。

 


 粗があるで思い出したけど映画に出てくるキャラクターの行動は全員荒っぽいのもむしろ良かった。アクションに特化してる影響かとにかく行動の一つ一つが大胆で雑。色んなオブジェクトが壊されていく中で壊れる音や弾け飛ぶ破片の描写が爽快。これも演出に特化してる影響なのかなと思ったり。

 

 


<マリオファンに向けたサービス要素>


 演出面で原作ゲームの効果音やらオブジェクトやらがこれでもかっていうぐらい散りばめられていて楽しい。私もそこまでマリオに詳しいわけじゃないけど、それでも分かる部分が沢山あった。


 キャラクターの深掘り、繋がりっていうのかな? オデッセイの世界観をベースにしながら、キノコ王国はもちろんドンキーコングの世界だったりペンギンたちの世界だったり、マリオたちが住んでる世界だったり、それらが全部繋がっていてまとまってた。


 記憶の片隅にいた意外なキャラの登場も熱い。レッキングクルーで登場したスパイク。マリオたちの家族。倒してもすぐ復活するカロンマリオカートでは欠かせない青いトゲゾー甲羅。海底に潜むでっかいウツボ。目をつけたら永遠に追いかけるマグナムキラー。そういえばいたなぁとなるキャラが次々に出てきて楽しい。


 ピーチの謎にも触れられていたのは驚きだった。なるほど、だからピーチだけキノコっぽい見た目ではないのか...今作のピーチは、凶悪なクッパにも臆さず勇猛果敢に行動するかっこいいお姫様、ケーキを焼いて待っていない。


 ヘイホーの扱いには疑問だった。元々USAの時に野菜嫌いのマムーが夢の国の妖精をあの仮面で操ってたんじゃなかったっけ?遠い記憶すぎて曖昧だったけど今作はクッパの手下として登場。ヘイホーって本編にも登場してたっけ...マリオカートとかのパーティーゲームにはよく出てくるけど。

 


<次回作への期待>


 事前情報で大ヒットしてるというのは聞いていたけど、なるほどこれはヒットするのも納得の出来だなと思った。実際この目で観に行って大正解、少なくとも損する人はいないでしょう。

 

 ただ、これはあくまで私たちが見知ってたマリオたちの世界、意外な一面、はちゃめちゃに動き回る姿が面白かったってことだからね(アクションムービーが好きな人向け)。ちなみに当方はジャッキーチェーン大好きです。


 映画を観た人なら分かると思うけど、まず間違いなく次回作は制作されてるんだろうなという幕引きだったよね。続編はどんな感じになるんだろう。Nintendo Picturesっていう映像会社も新しく設立されたらしいし、マリオ映画以外での新しい展開にも期待です。

 

 

(備考)

 ルマリーっていうキャラクター、私は知らなかったけどギャラクシーのキャラなのかな?なんでクッパ城で捕まってたんだろう。短絡的なハッピーエンドは好まない、死は救済って言ったりしててちょっと謎多い子だったな...マリオともあんまり絡みなかったし、これも次回作への布石かなと思ったり。

呟きの風船みたいなもの

・掃除をサボる言い訳

 

 生産性のない日々、徒然なるはぬるま湯地獄。

 手持ちのチップは私の拠り所。惹き寄せられるは魅惑の味。リズミカルな音色と共に、するりと喉を通るは悪魔の味。

 弾けて起こる脳内麻痺。漂う快感、爽快感。ジョークとメタボは豊かな証拠。

 いつでも頭の中は欲求ごとで満たされている。満たされている間は変にポエムを読んでしまう。

 良いのか悪いのかは分からない。欲求がなくなってしまったらそれはそれで人生終わるような気がする。

 けれど欲求の溜めすぎはかえって面倒で。欲求で埋め尽くされた先はぬるま湯地獄が待っている。ぬるま湯に慣れるともう上がることはできない。ぬるま湯に浸かりっぱなしで上手くいくわけがない。分かっていてもこれを続けてしまう、人間だもの。

 

......言い訳が長すぎる。

 

 この惨状を目の当たりにしてやる気が出るやつなんているだろうか。いやいない(反語)。

 その場から逃れるようにソーシャルゲームを立ち上げた。こればかりは日常生活に組み込まれている、日課。恐ろしい。


 努力は意識してやっていると絶対に続かない。

 小学校やら中学校やらを経験してきた人なら分かる。毎日朝早くに学校に登校することを誇りに思っていたことなどなく、ただ流れに身を任せていただけだった。

 当たり前だと思わなければ努力は続かない。むしろそれを努力だと思わないほうがいい。これが無意識でできているのが今も頑張って学校で勉強したり会社に行っている君達。それの逆もまた然り。意識せずに習慣づけることは勤勉も怠けも同じことなのだ。

 そして私は運命の悪戯だろうか、後者を選んでしまっているのかもしれない。

 

 という、散らかった部屋の片付けをめんどくさがる惰民の戯言。これ私だけじゃないでしょ...みんなこうなるって。

 

 

 

・電子化した話

 

 電子板で漫画を読むという習慣が板についてしまい、紙とは疎遠になってしまった。もうすっかり電子化の波にのまれまくっている。

 無料の漫画を読み漁る。最近は無料で読める漫画が増えた。無料で読めても作品が本当に面白かったら、消費者はちゃんとお金を払うのだから。単行本も買ってくれるから。3年で2300万部も売り上げたス○イファミリーは偉大なのだ。

 そう考えると某無料漫画サイトを批判していた人は少しずれていたのかもしれない。無料で漫画が読めたら単行本が売れないと主張する人は今でも同じことが言えるのだろうか。是非ご意見お聞きしたいところだ。

 コロナは悪いやつだけれど、電子情報化社会を促進させるきっかけになったとも言える。必要に迫られたら重い腰をあげるのが人なのだ。お陰でずっと物質的な貸し借りにしか対応できなかった市立図書館にもついに電子書籍が搭載され始めた。私もつい先日利用してみた。でもなぜ電子書籍なのに誰かが借りていたら待たねばならないのか、これが分からない。物質的な本は仕方ないにしてもデータは複数人でもシェアできるものではないのか。

 

 いつも「髪」を切ってもらってるスタイリストさんは今でも「紙」で読むスタイルを貫いているという。

「やっぱこのめくってる感が良いっていうか。紙の質量というか、ずっしりしてて、読んでるっていう実感があるじゃんね」

 電子板を持ってる絵もそれはそれで良いとは思うけれど、好みはそれぞれあるんだなと思った。

 

 コロナ前の自分は全部が全部電子化していったら気持ち悪いなっていう不安がどうしても付き纏ってしまっていた。でもみんながこっちのほうがいいじゃんって流れていったら結局は自分もそっちにいっちゃうんだなと。

 今ではこの生活にどっぷり浸かってしまってる自分に気持ち悪く感じてる。

 

 

 

・暇つぶしの瞬間風速は光並説

 

 陰謀論はさまざまな考察が飛び交う中で共感性を見つけ、マッチングするためのコミュニケーションツール。これが大きく膨らんで大衆化する現象をよく見るけれど、それが本当に正しいものなのかどうかなどは誰も気にしないよね。面白ければ何でもいい、暇つぶし程度にしか取り入れない。

 暇つぶしは常に需要があるから、それ相応の供給者が必要。つまりはマスコミ、もしくはインフルエンサー(目立ちたがり屋)が現れて。彼らは周囲を楽しませるエンターテイナーとして、惹きつけ役となる。テレビで有名人がただお喋りするだけの状況を眺めるよりはよっぽど楽しい空間が出来上がってる感じ。

 間に受ける人間、悪く言えば騙されやすい人間、って結構いるんよね。「〇〇だと思う」だとこの意見には信憑性が無さそうだと感じるが、「〇〇だ」と断定した言葉を放つと「そうなのかもしれない」と錯覚しちゃう、言葉の問題。

 強い語気にはそれ相応の反発ももちろんある。その反発は余計議論(笑)を活性化させて最終的にその人に対する宣伝になってることに気づかない。思う壺。そうやってコンテンツがどんどん広がっていって手に負えなくなって...。

 こういうことを繰り返し起こるせいで最近のSNS上では炎上騒動がたびたび起こっていってる。今日もよく燃えてますねと言わんばかりに燃え上がって、次の新しいネタが現れると徐々にその炎は消えていく感じ(完全には消えない)。

 

 閉じられた世界で盛り上がるより開けた世界で盛り上がるほうが息が続くっていうのを聞いたりする。それは別に陰謀論とか信憑性の薄い書き込みに限った話じゃなく、コンテンツの継続にも同じことが言えそう。スターバックスマクドナルドなどが毎回限定メニューを出すのは単純に「飽きられ」ないようにするためだと思うし。

 常に新しい要素を取り入れるのはどこでもやってることなんだろうけど、問題はそれがみんなから認知されるかどうか。宣伝に力を入れすぎるくらいで実はちょうど良い感じになるのでは。

 

 ファンクラブなんて新規増えないし...メンバーシップなんて何も変わらないし...思うことはあったけど、やっぱり色々変わってきてるのかな。この変化にみんな気づいてる?

 

 

(備考)

 明日から公開されるマリオの映画、海外では一足先に公開されてて大好評らしい。これもやっぱり宣伝力がすごかったからなのかな?認知度はもともと抜群だったもんね。まだ映画自体は観れてないからなんとも言えないけど、とりあえず近いうちに観に行った感想とか書く予定。期待しないで待ってて。

「天国大魔境」を読んだ。

 

 


 ブログの方向性(?)がいまいち定まってないような気がするのは書いてる私が一番感じてることで。評論書いたかと思えば次は小説、今度はレビューって。なんせブログは初めてなもので、色々模索している途中でして、温かい目で読んでもらえればと。というか批判が来ても気にせずに自由に書き続けるわけなんだけれど。


 フォロワーのみんなにはこの話題が続いてるせいで鬱陶しがられてると思う。でも何度も話題にしてしまうくらい私の中では衝撃的な作品だったと、そういうことなので許してね。


 タイトル通り「天国大魔境」という漫画を最近読んだ、という話。一気読みした日はTwitterの呟きの全てに「天国大魔境」のワードが絶対入っているというくらい一人で盛り上がっていた(TL荒らしてごめんなさい)。あれからだいぶ時間が経ったから今日はもう少し落ち着いて話せると思う。


 いやほんと、文字通りの衝撃だったなぁ...。「このマンガがすごい」で一位に取り上げられてた時は「ああー、石黒先生の漫画だー」くらいにしか思ってなかったけど、実際読んでみたらこれは本当にすごいぞと、これも文字通りになった(文字通りすぎる)。


 元々作者の石黒正数先生は「それでも町は廻っている」で知っていたけれど、この作品とはまた別次元のとんでもない作品が生み出されていたとはつゆ知らず。このテレビアニメが始まったタイミングまで読んでなくて本当にごめんなさいって気持ちがいっぱい。


 ただ今回に限ってはもっと早く読んでいれば良かったという気持ちにはあんまりなってない(おい)。多分最初の1、2巻までしか出てない時に読んでいたとしても、独特の世界観に慣れることができなかったと思うからだ。結果「不思議な話だった」というところでリタイアしていたかも。今までにも序盤の展開がよく分からず読むのを一度止めてしまった作品というのはいくつかあったし、ここまであっためていたのは逆に幸運だったかもしれない。


 売れ筋な漫画って序盤に大きな転機を迎える話が多いと思うんだ。「鬼滅の刃」「進撃の巨人」「【推しの子】」とか...。思い当たる作品はたくさん浮かぶでしょう。そういう意味ではこの記事に書かれている「漫画連載は最初の3話で決まる」というのも納得できる。そもそも3話までが面白くなかったら読まなくなるもんね、そこで。

https://originalnews.nico/354330


 ということはだ、「天国大魔境」はこの初速が少し弱かったばかりに、さっきあげたような一線級で売れている漫画群から外されてしまった可能性がある。実際、私も最初読んだ時は頭の中に大きなクエスチョンマークがあった。1、2巻までで途切れていたら、読者の心を掴まえるには難しい構成になっていたと思う。SFとか独特な世界観の話だと特に入り込むのが困難だろうし。


 同じ作者の前作「それでも町は廻っている」にもあった、時系列がぐちゃぐちゃな構成が今作でも特徴の一つになっていて※、最初に結末を持ってきたり、違う場所違う場面を行ったり来たりしたり。それで読者を惑わせて、最終的に途切れ途切れだった点と点を結ばせるという感じ。伏線回収っていうのとはちょっと違うのかもしれないけど、感覚的には同じものがある。だから序盤がよく分からないとなるのも仕方ないといえば仕方ない。


※知らない人がいたらごめん、もし良かったらこっちも読んでみて。天国大魔境より明るくて楽しい漫画になってる。


 なるべくネタバレに配慮したレビューなんだけど、やっぱり世界観とか雰囲気どんな感じなのか気になる人がいると思うので、これだけはあらかじめ書いておこうかな。「進撃の巨人」「メイドインアビス」並に残酷だと思ったよ。なんだろう、倫理観が著しく欠如した世界なせいか、他のどんな鬱展開よりも鋭利が増してるというか。人がばっさばっさ殺されるっていう描写は少ないくせに、それでも恐怖を感じるから相当残酷だね。SFなうえ、漫画で描かれてない部分を推測していくものもあるんだけど「もしこれがこうだったら...」みたいな、意味が分かってくると絶望する展開に読んでてずっとメンタル抉られてた。


 もともとあんまり暗い話は好きじゃなかったんだけどね。水星の魔女とか今アニメでもやってて面白いって聞くんだけど、どうも残酷描写があったりらしくて、怖くてちゃんと観れない。やっぱみんな笑顔になれる話が平和で楽しいじゃんって思う人だから。本棚に並んでるのもそういう漫画ばかりだし。


 でもやっぱりここまできたなら...って気持ちもあって、天国大魔境だけは本棚に迎えることにしました。まだ謎が残ってる部分もあって。最初ぐちゃぐちゃだったジグゾーパズルのようやく外枠が埋まり。真ん中の絵もぼんやり見えてきたっていう、今はそんな感じ。最終巻でそのピースも全部埋まるのかどうか、追いかけていきたい所存。


 この衝撃は「STEINS;GATE(シュタインズゲート)」というゲーム作品でも似たものがあったよ。ある種ゲームはクリアすることに意義があると考える人もいるわけで、どれだけ面白くなくとも最後までは遊んでみようと思うプレイヤーも少なからずいた中で、その数少ないプレイヤーがネット掲示板を通じて絶賛していたから、周りの人も「そんなに面白いなら最後までやってみようか」と徐々に有名になっていったらしい。あれから10年以上が経ったわけだけど、今や一人の呟きがSNSを通じて影響を受けやすい時代になったのだから、ここでこうやって「天国大魔境」は面白いぞ、と言うのは、私が思ってる以上に大きな力が持っていると思う。そういうわけでまだこの漫画を読んだことがないよという人はぜひ読んでみて。8巻まで出ていて、できれば一気読みがおすすめ。ちょうど今テレビアニメも放送中なので気になった人はチェックしよう。作画、演出、めちゃくちゃ良いです。唯一の欠点は見逃したらディズニープラスでしか見れないところ。

https://youtu.be/Sld5uW_BJU4

【小説】観察者の手記

 何かを書こうと思い立ったのには特に理由はない。

 なぜ私が人間の言葉を使って文字を書いてるのか、見当がつかない。きっと私は話し相手が欲しかったらしい。誰かに自らの思いを伝えたかったのかもしれない。いずれにせよ、一種の暇つぶしでこの文章は書かれていることには違いない。

 諸君は人間なのだからこの言葉を別の言語に置き換えて読むことも可能なのだろう。出来れば多くの人にこの文章は読んでもらいたいから、色んな言語に訳されることを願う(私の手で翻訳することも可能だが、いかんせん面倒くさいのだ)。

 と、自己紹介がまだだった。前述したように私は人間ではない。お前たちよりたくさんの時間を生きてきたし、多くの知識を持っている。要は地球上のことは誰よりも知っていると自負している。

 人間の世界では自分以上の存在を認めたら、それは「神」と称し、崇めるらしい。だから私は「神」なのだろうか。いや、違うな。なぜなら私は誰にも認知されていないからだ。誰かに知ってもらわなければ私は「神」にはなれない。

 そういやこの国の書物にも似たようなことが書いてあった。「御伽話」には「化け物」や「怪物」に遭遇する人間どもの話が書かれているのだが、これも認知されなければ彼らが恐ろしい存在だとみなされない。

 結論として私は「神候補」の存在にしておこう。

 ここで誤解を持つかもしれないから断っておくが、私は「神」として崇めてもらう、認知してもらう目的としてこの文章を書いている訳ではない。もしかしたら少し前の私は本当にそう思ったかもしれない。けれど残念ながら(これは自分にとってだが)、今はそんな思いで話が出来るとは思っていない。

 正直、私は人間を馬鹿にしていた。

 なんて愚かな種族だろうとも思っていた。

 それも仕方ないことはわかっている。人間の寿命は短くせいぜい100年くらいしか生きられない。そして集団を好む動物なのだ(集団がなぜいけないのかというと、どれが自分にとって正しい考えなのかが分からなくなってしまうからである。その結果、自分の考えを持てず周りに頼りきってしまう)。

 集団に属した人間はそれらのことを一番に考え、属さないもの(敵)の気持ちを汲み取らなくなる。そうやって「国」という大きな集団を作り始める。「国」と「国」は互いに睨み合い、戦い合う。実に滑稽で間抜けなものだ。

 これだけならまだましだ、人間には「知能」が備わっている。これを使えば様々な便利なものが生み出され、生活を豊かにする。文にしたらとても良いことのように思える。

 しかし、これがそうはいかない。良いことに使う道具が生まれる一方で悪いことに使う道具が生まれるというところだ。言葉に語弊が生まれるが、ここで言う良いことは「生活を豊かにすること」で、悪いことは「生活を豊かにできなくすること」という意味だ。

 生活が豊かになることは私は何も言わない。勝手に豊かになって、幸せになると良い。しかし問題は後者だ。これは私も黙認できない。特に「ダイナマイト」という道具は私が見てきた中で史上最悪のしれものだ。しかしこの「ダイナマイト」も最初は生活を豊かにする、良いことに使われることを望んでいたという。それがどうして彼らの命を奪う悪いことに使われるようになったのか。

 この「悪の知能」と、「集団」という習性が混ざり合い、人間は愚かで下等な生物だとみなしていた。少なくとも少し前までは。

 だが、今の私はそうは思わない。

 

 

 

 ここでさっきはあまり触れなかった人間の性質について触れてみよう。確かに人間には愚かで馬鹿な一面が備わっている。しかしそうじゃない一面もそれなりにあるということだ。

 その一つに「繋ぐ知能」というものがある。

 書いている私もいまいちピンとこない言葉なので簡単な例を挙げる。

 私がまだ暇を持て余して人間界に紛れ遊んでいた頃(今とあまり変わらないかもしれないが)、私は一つ人間に感心することを発見した。それが「数学」という考え方である。

 その頃の人間はやたらと地球のことを知りたがっていた。その中には太陽は地球を中心に回ってるんだ、など間違った結論が打ち立てられており、腹がよじれる思いでそれを眺めていたものだ。その中で一際「数学」という考えは私の心を動かされたものだった。

 この世界はどうやって作られたのか、それを数字という記号で置き換えていこうとするのである。私は興味が湧き、「数学」を学び始めた。

 人間界で紛れ込むのはそう難しいことではなかった。私の見た目は人間にそっくりだったし(髪はぼさぼさなのだ、色んな知識が入ってるからな)、子供っぽい外見なので気兼ねなく話しかけることができた。

 その中で仲良くなった一人に数学が大好きな女がいた。当時は性差別が激しく、数学を学ぶ女は社会的に認められていなかった。今思うと危険な道に敢えて踏み込んでいたかなり珍しい人間だったのかもしれない。

 性別という概念がよく分からない上に独りぼっちな私にとって「差別」とは何か分からなかった。なぜこいつは他の人間にいじめられるのだろう。そんなことしか思っていなかった。

 当時人間を下にしか見ていなかった私は「数学楽しい?」という彼女の純粋な質問に「楽しくなかったら学ぼうとは思ってない」という捻くれた答えを返したと思う。見た目と相反して捻くれたことばかり言う私を彼女は訝しげに見つめていたのをよく覚えてる。

「私、昨日お家から締め出されちゃった」

「何か悪いことでもしたのか」

「ううん、数学の本を読んでたら、お父さんに「そんな本を読むんじゃない」って怒られてそれで」

「数学は面白い。色んなものを数字で表そうとしている所が画期的だと思う。それなのになぜ学んではいけないのだろうか」

「私が女だからよ」

「?よく分からない」

 それから色々彼女は私に言ったけどそれらのほとんどは私にとっては理解できないことだらけだった。

 何年か経って、彼女は「面白い問題を見せたげる」と言ってきた。それはこんな問題だった。

「x^n + y^n = z^n nが3以上の自然数の時、これらを満たすx、y、zの組み合わせは存在しないことを証明せよ」

 当時、人間が考える問題なんてたかが知れてると思っていた私はこれを見てどう思っただろう。面白いよりも先に嫌な気分を味わった。どう考えても答えが思いつかなかったのだ。後にこれは「フェルマーの最終定理」と呼ばれ、300年もの間、多くの数学者を悩ませた。

 最初は「こんなの証明できない、でっち上げだ」と思った。私が分からない問題をフェルマーが簡単に解けるわけがない。どうせ証明しないままこの問題を作ったに違いない。そう思っていた。

 彼女は「いつかこれを証明するのが夢だ」と言っていた。私はそれを聞いてころころ笑った。

 結論を言うと彼女はこの証明問題を解くことはできなかった。けれどそこまで彼女を本気にさせたこの問題を恐れるようになったのは言うまでもない。

 それから数百年後、私は屈辱的な思いをすることになる。アンドリュー・ワイルズという人間がこの「フェルマーの最終定理」を証明したのだ。

 数々の手がかりを残していった先人たちの知識を総動員し、証明されたこの問題。ここに私は「人間はひょっとしたらすごい生物かもしれない」と感じさせられることになった。

 これが所謂「繋ぐ知能」と呼ばれるものだ。寿命は短いながらも次の世代に「知識」を渡していく。その度に彼らは進歩していく。もちろんこれは技術的側面だけでなく、言葉や気持ち、思いをも受け継ぐことができる。

 なるほど、私は納得した。この種族を絶やしてはならない。彼らはこれからもどんどん成長していく。もしかしたら私にも追いつくかも知れない。その時は楽しみだ。

 おっと。調子に乗ってしまわないように私は最初に言ったことをここでもう一度言っておこう。人間はまだまだ未熟で愚か者だ。しかし、中には良い所もある、それを磨いていくことで人間という生き物が発達していくことができるのだろうと思う。

 

 暇つぶしに書いてるからもう一つ。

 諸君は「幸せ」とは何か考えたことがあるだろうか。

 私にはこの感情がひどく少ないように感じる。

 人間の姿形をしているのに、人間が持つへそや生殖器などがない。こんな私と同じ種族は今まで一人として見たことはなく(ひょっとするといるかもしれないと散々探したこともあったが、ついに見つからなかった)、いつも孤独に蝕まれている。話し相手はごく一部の人間しかいないが全員私よりも先に死んでいなくなってしまう。その度に私は声を上げずに泣く。

 「愛」は「幸福」と通ずるところがある。そして「愛」は「家族」と通ずるところがある。

 こうしてみると、私は家族もなく愛されたこともない。

 全てを知り尽くした私はこれといってやりがいのあるものもなく、ドキドキすること、ワクワクすることがあまりない。

 そういう点で私は人間を少し羨ましく思ったりする。

 ここでまたひとつ例を挙げよう。私がまだ人間を知り始めて間もない頃、「クリミア戦争」という大きな戦争が勃発した。

 その頃、私には仲の良かった人間がいた。しかし、その人間は、兵士を志願すると言い出したのだ。

「馬鹿野郎、戦って何になる」

 私は再び孤独になるのがたまらなく嫌だった。こいつは私を置いてけぼりにしようとしているのではないか、とさえ思った。

 彼はこう言った。

「僕は国を守りたいんだ。多くの人の幸せを守ってあげたいんだ」

 彼の言っていることに私は理解できるはずもなく。

「国を守って善人気取りか。結局お前は自分の幸福を犠牲にするのは躊躇わないんだな。自分のことを大事にしない奴が他の人を幸せにできるわけがない」

 結局彼は私の反対を押しのけて戦場へ向かった。

 そして二度と戻ってくることはなかった。

 

 もしかしたらこの辺から人間が馬鹿な生き物だと薄々感じていたのかも知れない。

 彼が兵士学校へ通う間、私は「多くの人の幸せを守ってあげたいんだ」という言葉を心の中で反芻していた。「幸せ」って何だ?富か?名声か?そんなことを何日も考えていたような気がする。

 そして「幸せ」の正体が「愛」だと知った時、同時に私にとっての「幸せ」はまだ来ていないことに気づいたのだった。

 

 

 私はこれまで人間は「馬鹿で愚かな生物」としか思っていなかった。

 しかし、それは「嫌悪」とは少し違う。私は人間に対して「嫌悪」の感情を抱いたことは一度たりともなかった(あれば私は人間界に遊びに行かない)。理由は簡単で、彼らが私を敵視しないからだ。今まで出会って来た人たちは興味本位か知らないが少なくとも「嫌な顔」をしないものたちだらけだった。

 中にはとても面白い人間もいることがあった。

 こんな会話をしたと思う。

「君はどこから来たの?」

「私か?そうだな、遠い所からきた」

「お父さんやお母さんは?」

「いない、生まれた時から私は私だけだ」

「何歳?」

「13」

「好きな食べ物は?」

「トマトが好きだ。柑橘類も然り」

「私も好きだよ、トマト。美味しいよね」

「うむ。トマトは栄養満点だからな」

「そうだ、うちに美味しいトマトがあるんだ。一緒に食べよう!」

「...」

 話が脱線してしまっている。

 身元を調べられてるうちになぜか「トマト」の話になってしまい、こうして私はこいつの家でトマトを召し上がることになる。

 なんども言うが私は多くの人間に出会ってきた。

 人間には「法律」と呼ばれる共通の決まりがあるらしい。

 その決まりを破った者にはそれ相応の罰が与えられる。

 私と親しげに話していたその少女は、ころころ話題を変えるのが好きだった(振り回される私もそれなりに楽しかったが)。それと同時に決まりを破るのも大好きだったのだ。

 彼女は私のことを「ロンくん」と呼んでいた。訳を尋ねると「いつも一人でいるから(Lonely→Lon)」らしい。私が傷つきやすい人間だったらその言葉でショックを受けるというのに、こいつは平然と言ってのけた。

 そういやこの子は私が名を聞いた初めての人間だった。もっとも初めに聞いたのは愛称めいたもので本名ではなかったが。

「あなたはロンくん。可愛い名前でしょ?」

「でも一人ぼっちって意味なんだろ?」

「私の名前はね、チェンジっていうの」

「チェンジ?」

「私の話し方、みんなから嫌われてるの。いつも話題を変えちゃって気に入らないんだって。だからチェンジ」

「そう呼んでいいのか?」

「仕方ないよ事実だし。それより何して遊ぶ?」

 チェンジと私は何年も遊んだ。

 そんな私に会いにくるものがいた。彼女の先生である。

「誰だ?」

「ラテューナ(チェンジの本名)の担任、ベルです。あなたからも言ってやってください、もう規則破りは辞めなさいと」

「そんなにひどいのか」

「彼女は規則破り、いえ掟破りの常習犯です。今朝だって学校に持ってきてはいけないものを持ってきました。これは許されないことです」

「はあ、して彼女は何を持ってきたのか」

「いちごです」

 腰が抜けそうになった。

「なんでいちごを学校で食べてはいけないのか」

「そういう規則だからです」

「それを食べることで何か悪いことが起こるのか」

「それでは聞いてください、りんごを食べたことで今の私たちはこんなに苦労しています」

 笑いが止まらなかった。世の中にはこんなことを平気で言うやつらがいるのかと思うとおかしくてたまらない。

 その日の午後、チェンジは不機嫌な顔で私のところにやってきた。状況を把握していた私は笑いを堪えるのに必至だ。

「うう。いちご没収されちゃったよ」

「なぜ学校にいちごを持ってきたのだ?」

「だって美味しいんだもの」

「なら仕方ないな」

 その光景に彼女は自ら可笑しくなったのか、一緒に大声で笑った。

 これで私が人間を馬鹿にしながらも嫌いになれない理由がわかったろう。

 

 

 さて、ここまで書いてきたが私は少々疲れてきた。この程度の文字数だと小冊子にもならない。「作家」と呼ばれる、分厚い本を作れるぐらいの文章を書く人間どもはよほど暇なのだろうか。

 人間どもは「お前でも疲れることがあるのか?」と考えることだろう。生憎、私だって疲れることはある。寿命だって勿論ある(と思っている)。人間と比較したら長いのかもしれないが、私は今のところ700年ほど生きている。

 私が生まれた時、「なんでも知りたい」という欲で溢れていた。

「私はどうして生まれたんだろう」「誰が私を産んだのだろう」「私の体はどうなってるのだろう」「どうして物が見え、言葉が喋れるのだろう」

 小さい頃の記憶はあまり覚えていない。ただ何かを知りたい思いで満ち溢れていたことは覚えている。

 当然生まれた時、身の回りには誰もいなかった。私は絶えず孤独だった。けれど私はそれを「寂しい」とは感じなかった。それが当たり前だったからだ。

 私に「寂しい」という感情を教えたのはやはりお前たち人間で、私には無い「幸せな」「楽しい」暮らしをする人間のことを心底羨ましがった。これが「嫉妬」だと気づいたのはもう少し後のことで、そんな嫉妬心から私は人間が私より劣っている部分を探す旅に出かけたのだった。

 まあ、その旅で人間の欠点を吐いて捨てるほど見てきたわけだが。それが「ざまあ見ろ」と思うことがあれば、「何をやってるんだ」と呆れる部分もあり、多種多様な感情を抱く。

 

 さて、今まで長い道のりだった。

 人間には過去を記録する習慣があることは知っていて、700年前と聞いても容易に当時の時代を想像することが可能だろう。唯、その話をすると長くなりそうだからここではやめておくが、とても大変な時代だった。よくもまあ人間は滅びずにやっていけたな、と常々思う。

 それから今までにも数多くの困難が待ち受けていたことは歴史を学んでいるお前たちは十分理解しているだろう。そう、お前たちは「運がいい」。今も人間が平凡と暮らしていけるのはもはや「奇跡」に近い。

 と言ってもそれは私にとっても嬉しいことだ。なんせ700年経っても私は人間の世界に飽きていないのだから。それにこれ以上私以外の「話し相手」がいなくなってしまえば、今度こそ私は孤独と悲しみに苦しめられることになるだろう。

 ノストラダムス、マヤとやらが唱えた「地球滅亡論」なんてものは来て欲しくない。人間がとことん馬鹿でも滅んで欲しくない。その願いがここまで続いてきたことに喜びを感じる。

 そして時は21世紀。私も7世紀生きているという実感がなんとなく、感じられている。

 

 言いたいことはおおよそ言えた気がする。

 ここまで私の戯言に付き合ってくれた人間諸君、どうもありがとう。私はこれからもしぶとく生き続け、人間を観察していくつもりだ。お前たちも「私にはない」幸せを大いに楽しむがよい。

 

 さて、今度はどこへ遊びにいこうか。